D’s diary

日々の気付きを投稿しています

日本で生活して、些細なことから感じるGlobalizationへの危機感

あなたには嫌いな言葉はありますか?

本日の気付きとして私は”タイミングが合えば”とか”機会があれば”とか発言する人にすごく不甲斐を感じます。

 

これらの表現は直接的な表現を避けていて会話として何の情報も生んでいないだけでなく、ただ自身の意志の弱さや自己管理の甘さを露呈していて、ただ会話を円滑に終わらせたいがために使われているからです。

ただこの表現は日本だけでなく世界中共通で使われています。

私は米国に6年ほど在住していましたが、日本人と比べると明らかに米国人の方がこの表現を使うのを嫌がります。

基本的に米国人は”Yes”と”No”をはっきり言います。そしてそれは社会または人とのコミニュケーションの中で重要だと認識されており、曖昧に濁すのは双方にとって失礼だと考えられています。(もちろん例外もあります。例えば、バーなどで知らない人とかに絡まれた時など)

それとは反対に日本人は”Yes”をいうときはハッキリ言うイメージですが、”No”の時回答を濁すのが美徳または会話相手のとって失礼のない返答という認識がされています。そのため返答の際に少し”Yes”のニュアンスを含めた返答(”Yes”寄りの”No”)になってしまって誤解が生まれてしまいます。

そしてさらに日本人の特徴として”断り行為は、その発話が適切性を備えているという条件下で、短い表現より長い表現のほうが丁寧である”という研究結果が証明されており、そのため返答では”いいえ、でもタイミングが合えば”とか”いいえ、でも機会が合えば”という相手に浅はかな疑念の余地を残すことになってしまっている。
 

 日本人は断り表現において丁寧さをどう判断しているか : 長さと適切性からの分析, Ito Emiko



ここまでは主に文化的な主観から見てきたが、経済的な視点から見てみるとどうだろうか?

日本は現状経済はまだ世界的に見たら第3位の経済大国だが、年々人口は減少して国民の平均年収も30年以上変わっていない(もしかしたら国民の平均年収は30年前と比べて減ってしまっている可能性まである、なお税収は年々過去最高を更新している模様)

歴史上の例からこのような状態で国が著しく発展していった例もないので、廃れていく未来はすでに見えて、国内産業のGlobalization がより加速してくるだろう。国内産業のGlobalizationは日本にとってすごく残酷である。その理由としてGlobalizationは成果、効率や能力をを最重視し基本的には実力主義だ。一方で日本はそんなことはない正社員で雇われれば法の保護によりほとんど解雇されることもなく、個人の競争力が明らかに外国人と比べて劣っている。

一つその例として言えるのが給与交渉だ。給料は生活に直結する重要なファクターにも関わらず、日本人は交渉を滅多にしない。(というか同調圧力が邪魔をしている)それで持ってほとんどの国民は政府に不平不満を述べているがこれは雇用元に矛先を向けるべきではないだろうか?(公務員はもちろん政府に訴えるべきではある)

私はこれが先ほど述べた根底にある国民の平均年収も30年以上変わっていない原因だと思う。

以上の点からGlobalizationがさらに加速した時にタイミングが合えば”とか”機会があれば”という表現は人間関係または人生全般においてデメリットに働くことがあるため、私は使い分けができる、適応に柔軟的な人が将来的に貴重な人材になれるのではないかと思う。

その理由は使い分けができる、適応に柔軟的な人は双方のどちらにも寄り添えるだけでなく、双方を結ぶパイプラインとなれるからだ。

唯一の危惧としてはglobalization は格差を拡大をしてしまい、極端に自国のIdentityを守るためにNationalismに向かってしまうことがあるが、それは現実的に今の日本にメリットはないだろう。

Set boundary and Learn to say "No"